文体が、文学作品の重みを既定する。 「吾輩は猫である」を大江健三郎氏が書くと・・・

1994年にノーベル文学賞を受賞した大江健三郎氏の小説も、最近ではあまり読まれなくなった。
大江氏の書く硬質な文体はこの時代ではうけいれられなくなりつつある。

ちなみに大江氏のノーベル文学賞の受賞理由を抜粋してみよう。

詩趣に富む表現力を持ち、現実と虚構が一体となった世界を創作して、
読者の心に揺さぶりをかけるように現代人の苦境を浮き彫りにしている
参照元 Wikipedia

大江氏の小説をタイプで分けると、上記からもわかるように
まじめなテーマを真摯に描くタイプだが、創造性には富んでおり、描かれたテーマで同時代の人たちを引き付ける
ものがあったのだと思う。ところが、大江氏の描く物語のテーマは、今では共感されづらい。

そんなわけで、夏目漱石氏のユーモアにあふれた「吾輩は猫である」
大江健三郎氏が書くとどんなふうになるか?
を「万延元年のフットボール」の文章をベースに書いてみようと思う。
これをご覧いただければ、文体をどうするかで、文学作品の重みが決まってしまうということが
お分かりいただけると思う。

吾輩は猫である。 名前はまだ無い。
どこで生れたかとんと見当がつかぬ。
何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。
吾輩はここで始めて人間というものを見 た。
しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪な種族であったそうだ。

夏目漱石「吾輩は猫である」書き出しより

それでは、この名文を
大江健三郎氏風に書き直すとどうなるか?
これを見れば、文体が文学作品の重みを決める、つまり、物語のジャンルをも既定するということが理解できるはずだ。

夜明けまえの暗闇で食欲を充足するものを求めて
ニャーニャーと泣いていたという記憶だけがいつまでも寂寞の思いとして
記憶の隅に残っていた。
その場所で、吾輩は始めて人間の掌によって
スーと持ち上げられた。後に聞いた話では彼は書生という
獰悪な種族であつたという。

〇夏目漱石「吾輩は猫である」を大江健三郎氏「万延元年のフットボール」の文章風に
私が勝手にデフォルメして書いたものです

Follow me!