言葉は正確に伝えるモノなのに、文学では不正確な表現で正確なものを感じさせようとする。(文学における描写の最適解)

寝巻き姿のおじいちゃんが家の下の道路を歩いていき、電信柱の下にゴミ袋を置いていった。朝が始まる。
綿矢りさ「蹴りたい背中」より

この文章を読んで、読者は下町の朝の光景を思い浮かべると思う。

文学ではこのような描写が要求される。
言葉は正確に伝えるモノなのに、あえて、文学では不正確な表現で正確なものを感じさせようとする。
じつは、コレ、文学だけの話じゃない。
「カラダにピース」というカルピスの広告、
「自然と健康を科学する」ツムラ なんていうものもある。
「インテル入ってる」インテルも名作だ。
「セブンイレブン、いい気分」なんていうのもサイコー。

その言葉は正確ではないが感覚でわかってしまう。
どうして?
というと、その根元には〝コード〟というものがあるからだ。
コードとは言葉の約束だ。
仮にさきほどの「蹴りたい背中」の一文をフランス人に読ませても何も感じず、「?」となる。
フランス人には、この種のコードは存在しないからね。

話を文学に戻すと、

寝巻き姿のおじいちゃんが家の下の道路を歩いていき、電信柱の下にゴミ袋を置いていった。朝が始まる。
綿矢りさ「蹴りたい背中」より

は文学的表現として素晴らしいと評価される。

だ・が、そのような文章だけで一つの小説を書きあげると、
読者は飽きてしまう。表現が飽和状態になってしまうのだ。
だから、小説・文学作品における描写には文章全体とのかねあい、バランスが必要なのだ。

綿矢りささんは「蹴りたい背中」で2003年下期芥川賞を受賞しています。なんと、史上最年少19歳でした。

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