小説という作品・作家の作風はどこからくるのか?

綿矢りさと、中上健次、村上龍、阿部和重、舞城王太郎の小説を、表紙を見ないで
本文だけで読み比べてみると一発で誰の作品かわかるだだろうか?

この作家の作品を読んでる人ならわかるんだなー。

どうして? と聞かれても多くの人はなんとなくしか答えられない。
いや、それどころか、〝文学って何?〟と思う人が圧倒的多数をしめるこの時代、
「それって何? そんなことをして意味があるの?」と問い返されそうだ。

彼らの作品の文体、描写、語り口は独自のもので、似た文体で書いた別の作家がいたとしても、
違いがわかり、だれ誰の作品と特定できてしまうほどだ。
もちろん、村上龍の「限りなく透明に近いブルー」と「半島を出よ」では明らかな描写の差異がある。
それでも、その文章を数ページ読めば村上龍の作品とわかってしまう。

つまり、おおかたの小説家の作風は、文体、描写、語り口
から生まれている。

ところが、安部公房の「箱男」や「第四間氷期「砂の女」を、文体、描写、語り口で
語るというのは、ありといえば、ありだが、創造的な構成・物語、書き出しから結末に至る組立で語る人のほうが多いと思う。
つまり、安部公房らしさなるものは、文体、描写、語り口以外から来ているのだ。

そろそろ結論を言おう。
文学系の作家でもその作風が文体、描写、語り口からきている作家と
構成・創造力からきている作家がいるのだ。
そして、最近は文体、描写、語り口で作家らしさをだす作品が圧倒的に多いのだが、
その文体でさえ、文学新人賞の一次選考者のレベルで
出過ぎた杭は打たれる傾向にあり、平均化してきている。

何が言いたいのか? って、
故・中上健次氏が2022年に公募文学賞に応募したと仮定して
「紀州の雨は下から降る」(← すいません、うろ覚えの文章です。たぶん中上氏の作品の中の文章)
などと書こうものなら、選評で「舞台が紀州でなくて、三陸だったらよかったのに」と
選評されるか、最終候補にも残らないと推測できてしまう。

まあ、 「お前はもう死んでいる」状態の文学  だからしょうがないのだが。

*「お前はもう死んでいる」・・・漫画『北斗の拳』の主人公・ケンシロウの台詞です。

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