小林恭二氏の「小説伝」は、どんなふうに書けば 芥川賞 をとれたのか? その3 じっさいにプロットを考えてみよう

西暦二〇六四年五月二八日。東京北区の公団アパートで一人の男が死んでいるのが発見された。
野々村佑介。本籍・・・・・・・・・・・・
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野々村氏の家で拾ったフロッピーのことを思い出し、読み取り機にかけた。
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コンピューターのディスプレイに現れたのは、小説だった。
前世紀から殆ど書かれなくなったあの小説であった。
しかも、それはただの小説ではなかった。
それは見たことも聞いたこともないような長い長ーい小説だった。

小林恭二氏の「小説伝」
より冒頭部分と最初の章の終わりの文章を引用しました

ここから始まるドタバタ劇の小説、しかも主人公は人ではなくて、「野々村氏の小説」というしろもの。
さらには登場人物多数の神の視点という小説だから、芥川賞選評ゼロは理解できる。これをパロって文学作品に仕立て上げ、芥川賞に向かわせるには、根本からの見直しが必要。

まず、1人称にすること。

2064年の時点のことを書いているのに「フロッピー」などの骨董品が登場しているので工夫が必要なこと

この小説の核になる「小説の発見」を、主人公の発見とリンクさせ、それをテーマにすると、
それによって文学で必要とされる〝人〟が描ける。
具体的に言えば、その「小説の発見」を主人公の糧にするとかだ。

プロットを作るための設計をしてみよう。
これは、あくまで一例で私の一つのアイデアだが・・・

小説の発見者は古物が大好きな骨董品屋。ある日、デジタルとしての小説を発見する。
どこで? 使い古しのwindows15がOSではいっている骨董品PCと書けば未来時点での描写もおかしくない。
それゆえに、小説の発見者=主人公は古物大好きが要求される。

この「小説」というものは、主人公には何だかわからないが、
それを主人公が少しづつ理解していくとした
書き方は謎を内包しているため読者の「次はどうなる?」という気持ちを持続させやすい。

なぜ、「小説」が何か、パっとわからないのか? は工夫して書く必要がある。
たとえば、長年に渡りWEBのアルゴリズムが捻じ曲げられてきたから知識も隠蔽されていたとかにするとか。
それを説明すると、
「ソニー」ってGoogle検索するとあの有名な「ソニー」が一番目に登場するでしょう。
これがSEOのアルゴリズム。
ところが、中共みたいに「天安門」とか検索すると
中国の検索エンジン百度では六四天安門事件が表示されないように。
アルゴリズムにバイアスがかかれば、事実も事実でなくなったり知識も隠蔽できるわけです。
しかも、これが長年続けば、人々はその記憶を失う。

そのアルゴリズムの捻じ曲げは主人公の脳裏にまで及び、
だから、「小説」というものがアルゴリズムへのバイアスによって世界からなくなったというふうに描くと
面白い。

だけど、これだけでは、芥川賞はおろか、文学作品として完成しない。

大江健三郎の作品ではないが、「洪水はわが魂に及び」にしなければいけないのだ。
人を描かなくては文学は成立しない。

だから、ここで、その小説を主人公に結び付けることが必要になる。
ラストは
その小説の解読により、自分を見つけるという風に描く。

こう書けば、芥川賞の選考対象として評価がされるものになる。

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